辞書づくりは並大抵の仕事ではない。
1980年代の紀田順一郎の幾つかの著作でも読んだことがあるけれど、ひとつの辞典を作るのにも、作り手は手間暇も採算も人生も家庭も度外視した知的情熱と制作魂を燃やした事例がたくさんあるという。辞書のために、書いたその人は人生を灰になるまで燃やし尽くしてしまった。そうして、やっと1つの辞典ができあがるか否かというような、それはそれは、……呆然とさせられる仕事なのだ。やもすれば編著者の人生を丸ごと使い込み、さらにその仕事を引き継いだ息子の人生もまたほとんど追加執筆に注がれ、一家の全財産を投入し破産しながら作り上げられた辞典も中にはあるという。
恐ろしく手間のかかる事業である。もはや「仕事」の概念さえ超えている。
できあがった辞書だって、大して売れないことがほとんどだ。
道具性の高い特殊な本、辞書。道具なのに、なべて中中使いづらい。ボリュームがあるせいもあるだろう。しかしボリュームこそが辞書の価値でもある。というわけで、ほとんどの箇所が読まれないでページのなかに眠っている。辞書好きの人間でさえ、必要があった時に時々ぱらぱら使うだけなのである。作り手に感謝などそんなに感じもせずに。
何と言えばいいか、……言葉に詰まる。
しかし我々は、読書や生活の中で新しい言葉に出会い、そこにきちんと意味をもたせるのには、辞書がなければ何ともならない。その場において、その個人にとって、辞書があるからこそ新しい言葉は明確な意味を携えられる。そのとき辞書をひくことを怠ればイメージは朧げなままだし、知識も増えていかない。知的成長は静止する。
我々はやがて「意味」ということばの意味が、底なしに連綿と続くリンクの集合体であるということにも気がつくだろう。また、どんな言葉の意味も固定的な定義を得られないという性質を持ち、言葉は揺らぎや空隙を絶えず含むイメージの発現体であると気がつくかもしれない。たとえば〈人生の意味〉を模索した青春のテーマは、それだけの気づきでほとんど霧消していったりして……
ああ、今日の話題はこんなことではなかったのだ!
創元社の『最新ことわざ・名言名句事典』(2016)についてである。
*
さて、諺とか名言を集めた辞典は、もしかすると辞書というジャンルの中でも一番多いのではないだろうか。昔から色々な出版社からいっぱい世に出されている。
ちょっと考えてみれば分かることだけれど、諺・名言の辞書というのは他の辞典類と比べると比較的作りやすいはずである。ことわざや名言をどこかから引用してきて並べれば済む。体系化するとしてもカテゴライズが厳密である必要はなく、網羅的である必要もない。そして他方で社会生活を営む人々は、いつの時代も名言・格言・言葉の技を生活の中で求めている。
さっきの辞書作りの話とは違って、生産しやすく、また需要とのバランスが取りやすいのが、名言・格言・諺についての辞典なのだと思われる。
数多ある名言・諺辞典のなかから今日とりあげたいのは、創元社編集部編『最新ことわざ・名言名句事典』(2016)。「ことわざ」2500語+「名言名句」2200語の、総計4700語を収めた便利な辞典であるという触れ込みだ。
従来の『ことわざ新辞典』と『金言名句新辞典』とを合わせ、改訂を重ねたものだと「はしがき」に解説されてある。たしかに、前半が「ことわざ編」、後半が「名言名句編」となっていて、合わせてはあるが混ぜこぜにしていない構成となっている。
この本を、私はたまたま昨日書店で見かけて衝動買いしてきた。

なぜ買ったのかというと、ぱらぱらと見て、そして幾つかの語を引いてみて(これはかなり丁寧な内容だ)と思ったのと、「はしがき」の文章が良かったのと、980円(+税)という安価、手頃なサイズ、それから赤い表紙の美しさゆえである。所有欲がかき立てられた。
細かいことだが、太めの宣伝帯がまた良い。
――「猫」の江戸期っぽいイラストが挿入されてあり、「猫」関連の語(猫も杓子も/猫を追うより魚をのけよ/鰹節を猫に預ける)などと一緒に、モンテーニュの言葉「私が猫とたわむれている時に、私が猫を運動させているのか、猫が私を運動させているのか、誰が知ろうか」が挙げられてある。
帯にモンテーニュ!
その真面目さ渋さにうっとり来た。モンテーニュの肖像画まで掲げてある。
果たしてモンテーニュが、現代においてアイキャッチになるものだろうか?
たしかにモンテーニュは金言名句の宝庫だが(デカルトも愛読していたくらい)、ゲーテとかシェイクスピアとか、他にいくらでもそういう偉人はいる。
単純に、「猫好きは一定量いるはずだから、有効な宣伝になる」という軽々しい定石の打算からこの帯を作ったのかもしれない。(NHKの「サイエンスZERO」という番組では、少し前に猫特集を組んで好評だったのでと、先日また猫の科学第2弾を放送していた。それから、昨年面白かった邦画『奥田民生になりたいボーイと、出会う男すべて狂わせるガール』(大根仁監督、2017)の話の中で、登場人物の雑誌編集長がやりたくもない「猫」特集を組まされて愚痴る下りがあった。)
いずれ、特に猫好きでもない私にとっては、モンテーニュが猫じゃらしとなった。
*
「デカルト」の言葉は本書に4つ取り上げられてある。
p.265
「われ惟う、故にわれあり。」【理性】 p.269
「この世のもので最も公平に配分されているのは良識(ボン・サンス)である。」【良識・常識】 p.350
「私自身のうちに、あるいは世間という大きな書物のうちに、見出されうるであろう学問のほかは、どのような学問にしろもはや求めないと決心した。」【学問】 p.356
「すべて良き書物を読むことは、過去の最も優れた人々と会話を交わすようなものである。」【良書】それぞれ引用文のあとに短く添えられた解説文も、ツッコミどころがないという意味で完璧だし、好感が持てる。ちょっと説明不足だが、間違った解説がない。
ただこの4つの言葉が全部『方法序説』から採られているというところは、もうちょっと捻りがあってもよいとは感じた。
ところで、上記のデカルトの言葉は、3つめと4つめとで相反したことになっているのではないか? 書物を求めないとそう言った舌の根が乾かぬうちに、良書を読むことは昔の偉人と会話することだと言っているのだから。
諺には、よく相反する表現がある。
それは当然のことなのだけれど、若い人々は釈然としないかもしれない。「先生によって違うことを言ってたけど」と自動車教習所でフテ腐れた経験を持つ人は多い。
それについて本書の「はしがき」に、ご丁寧にもこんなふうに書いてある。
「
……多くのことわざや名言名句の中には、それぞれ相反する意味を持ったものや、矛盾する内容のものが見られますが、人生や社会が矛盾と相対的価値を持った存在であれば、その反映として当然とも言えます。……」
じっさいには、デカルトが書物の学問から離れたというのは、はっきり言って大ウソであった。
何かを述べる時には誰かの著作に基づいたことを混ぜながら、『方法序説』以下いろいろ書いている。たとえば心臓についての研究はヴェザリウスのことを基にしていたし、ガリレイの科学書だって齧り読みしていた。
ただし、若い一時期のみ書物の学問を棄てて世間という書物にのみ目を向けていた、という意味で捉えれば、書いてあることは嘘ではなくなる。デカルトは、きっとそういうニュアンスで書いている。
本書に取り上げられたデカルトの金言は、他の者と比べて(たとえばモンテーニュとかシラーと比べてもいいのだが)、あまり胸に響いてこない。そもそもデカルトは格言が得意な哲学者ではない。説教や人生訓を教示したがるタイプの人間ではなかったのである。
パスカルを見よ。デカルトが4つなのに対し、パスカルは27もの格言が本書には載っている。
それにしても、モンテーニュの言葉は染みる。デカルトに引き継がれた精神も多い。
モンテーニュを掲げながら、今日はペンを置くとしよう。
「世の中には勝利よりももっと勝ち誇るに足る敗北があるものだ。」
「私は自分ひとりのために生まれたのではない、公衆のために生まれた。」
「運命は、われらを幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とをわれらに提供するだけである。」
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