「千夜千冊」チェック表ダウンロード/松岡正剛『擬 MODOKI』
- 2018/03/19
- 23:21
超長大かつ深遠なる松岡正剛氏の書評ブログ「千夜千冊」を、私はちょうど2年前から読み進めているが、2018年3月19日現在で第1667夜まで発表されてある内の私はまだ480夜分しか読めていない。いったい読破するのにあと何年かかるのか? 恐るべし、「千夜千冊」!
私は正剛氏のイシス編集学校とはまったく無関係だし、おそらく今後も縁はない。ただの一読者として松岡正剛の著作を読み、多大なる知的影響を受け、時々賞賛批判をブログに書き散らしているだけである。
私の性格上どうしてもブログには批判を多く書いてしまいがちなのだが、内心では心の底から正剛氏を尊敬してもいる。これほどまでに広く、深く、表現力豊かに教養をくれる知識人は、地球上どこを探したっていないかもしれない。はばからずに告白すれば要するに、私は松岡正剛氏に私淑している、ということになるだろう。親炙に浴することはなくとも。
結局のところ大変素晴らしい「千夜千冊」。
だが、読む側もけっこう大変だ。
ブログ「千夜千冊」をすべて通読したという人は、生徒やお弟子さんをはじめ世の中に数千人くらいはいてもおかしくない。そう思ってネット上を検索してみたのだが、そのように公言している人の記事はひとつも見つからなかった。
現在までの「千夜千冊」を全部読了した人は実際にはどれくらいいるのだろう? 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を通読した人は一人もいないかもしれないとはしばしば言われることだが……
とにかく、全読破に挑むには、まず読者側に良策が要る。
私は表計算ソフトで番号を打ち出して、ランダムに読んでも虱潰しに読み進められるようにチェックシートを作った。ところが正剛氏の執筆のスピードはとても速い。こちらがたらたらと遅読にかまけている間に2年の歳月が経ち、チェックシートの数字が足りなくなっていた。

古くなった私の読書チェックシート
それで新しいチェック表を作ることにした。
ついでに今回は、私と同じように全読破を志す読者の方々のためにも、「『千夜千冊』読書チェック表」のPDFデータを公開しておこう。各自自作する労を省けるでしょう。ただ1~2000の連番を羅列しただけのものでしかないのだけれども。
→「『千夜千冊』読書チェック表」ダウンロード
http://www.kasainote.net/1000
(※『松岡正剛の千夜千冊』ブログの全読破をめざす皆様、どうぞ自由にご使用ください。)
*************************
【注記】このチェック表は『千夜千冊』(松岡正剛/ISIS編集学校)とは一切無関係です。ただの一読者である私が勝手に自分用に作ったものをフリーで公開しました。PDFをA4用紙に印刷して自由にお使いください。【使用法】チェック表の使用方法は各自で自由に工夫してください。日付を付けるもよし、番号に○だけ付けるもよし、メモを書き込むもよし。ただし、傑作の稿には必ず目印を付けておくべきです。【TIPs】最初や最後から順に進めるのは時々にして、基本的には読者の興味分野からランダムに攻めるのが長続きするコツです(そのためのチェック表なのです)。そしてただ読み進めるのではなく、気になった文章や読みたい本をメモ帳などにコピペしておくのが理想です。【掩巻】正剛氏も江戸時代の読書法として紹介していた「掩巻(えんかん=時折本を閉じて味わうこと)」をお薦めします。電子画面での読書は紙媒体よりも眼精疲労を引き起こしやすいと思いますが、目の健康は読書の資本。掩巻は一挙両得の読書法なのです。
【MEMO】「松岡正剛の千夜千冊」ウェブサイト → http://1000ya.isis.ne.jp/top/
*************************

新しく作り直した「『千夜千冊』読書チェック表」
*
さて、松岡正剛氏個人での最新著書は『擬 MODOKI』(副題:「世」あるいは別様の可能性、春秋社、2017)。帯には、“「世」はすべて「擬」で出来ている”、“「ほんと」と「つもり」は、どっちが歴史なのか? 世界と日本の見方が一変する、驚愕の超読的エッセイ”とある。今日はこの本を紹介したい。

「擬」という見方は、本物があって擬物があるのではなく、「ほんと」と「つもり」がまじった状態でしか世界や世間は捉えられないという見方だ、すべては内属しつつ外包されているからだ、という。
こうして世の中を「擬(もどき)」あるいは「別様の可能性(コンティンジェンシー)」として捉えなおしたい。――それが本書のテーマとのことだ。(p.277)
またもや正剛氏、よくぞこんな表現の難しい主題に次々と取り組むものだ。
これまでも、弱くて淡いものの凄さを取り上げた「フラジャイル」だの、日本の美意識の趣についての「数奇」だのと、曖昧で表現しようすれば指の間から零れ落ちそうな題材を思想エッセイとしてまとめてきた氏であるが、今回もやはり難題であろう「モドキ」という事象について語ったのであった。
果たして、本の出来映えはまずまずの75点だった。
というのも、全体として真正面から「擬(もどき)」を考えていくというよりは、外側から真理をスケッチしようとするタッチで描いている。そのことはいいのである。しかし外側から攻めすぎて、完全にテーマから逸れている話題が少なくなかった。そんなだから、この1冊で「擬(もどき)」を探求しきれておらず時々「擬(もどき)」に触れる、という感じに妥協してしまっている。

目次にメモした私の評価。「目次」の語も掲げないシンプルな目次構成が美しい。
やはり「擬(もどき)」というテーマはそれなりに深い。着眼点、正剛氏の思想の方向性は、やっぱり凄いのである。
コピーと原本とに本家分家の違いなどあるまい、遺伝子を見てみよ、というわけだ。
しかし氏はさほど腰を入れて取り組んでいないから、案外あっさり終わってしまう。
最近の「千夜千冊」のエッセンスを散りばめてダイジェスト版みたいにしてお茶を濁している。
本書について決定的に言えるのは、この本では肯定的な意味での「擬」に拘りすぎたために、否定的な「擬」がこそぎ落されてあるという考察的欠落があることだ。「擬」にまつわる負の面は、編集によってすっかりカットされている。
ウソとホントの違いを分析したりしないし、「本物そっくりのモドキ」には触れられてもいない。
私は正剛氏の生命観や自然観に非常に共感するところが多いのだが、それなのに色々と惜しいのである。本来のモドキという意味が発揮される動植物の「擬態」についての考察がないのはなぜか? 本来「擬」の認識には他者を騙すという意味が濃い。昆虫でも爬虫類でも食虫植物でも、擬いておいてパクッとやるのである。パクッとやるために擬くのだ。あるいはパクッとやられないために、擬いてこっそり危機をやり過ごす。本書の思索はそこが出発点であるべきではないのか?
そういう話がまったく出てこない。
そして人間も同じであろう。
迷彩柄、偽装工作、オレオレ詐欺……騙すのが「擬」の原義のひとつである。
それから、中国製のフェイク製品とか、100円ショップのコピー商品が本家本元を殺してしまうという市場の問題もスケッチされていない。そうした考察は何もない。
つまり、誰もがまず想起する「擬(モドキ)」の不評について、本書には全然書かれていないのだった。ダミーについて論ずることなく「擬」を語り尽くしたとは到底いえまい。
それどころか、「オリジナリティなどというものは存在しない」とまで論じているようだ。
そこではタルドの言を引用し、「すべてのものは発明か模倣かにほかならない」というところから、
……世間ではしばしば模倣の意図を問題にする。オリジナリティや知的所有物を養護する。しかし「模倣が意識的であるのか無意識的であるのか、あるいは意図的だったのかそうではなかったのかということを区別するのは意味がない」。(p.69)
という。
するとなると発明家・発見者・イノベ―ターの仕事はほぼ無価値になるが、正剛氏の論説ではいつもそこは別様な解釈が施され、編集されてしまう。大体、正剛氏の文章はいつも人名引用が膨大になるが、人名や書名など固有名詞はそもそも何らかのオリジナリティを発現しているからこそ固有名詞たりうるし、わざわざ引用するのである。正剛氏だって、「杉浦康平にオリジナリティはない」とか「足穂には独創性など何もない」とは(薄っすら思っていたとしても)まさか語れまい。そんなことは言わなくていい。むしろ正剛氏の中で「オリジナリティ」の定義を適切な位置までズラしてやるべきなのだ。
たしかに正剛氏やタルドのこの論説には一理ある部分もあるだろうと、私だって思う。しかしこれで「擬」のすべてを肯定的に持っていったり、社会は「擬」で出来ているなどと説くのは極論で、あまりにも浅はかな考察であろう。随分以前から「千夜千冊」でも“模倣”や“擬”について考察が重ねられており、例えばニーチェや三島由紀夫と絡めたりして氏の中でだいぶ思想は深まっているはずなのだが、書籍化されたらそれらが十分に活かされてはいない。
「オリジナリティ」の問題には「擬」かホンモノかということ以外にも、価値の創出だの再定義だのという要素もあって、デュシャンやウォーホルや織部や利休、そしてボイス、雪舟、空海などとセイゴオ的に芋づる辿って「世」を丸ごと包み込みつつ包まれる展開にもっていくことはいくらでも可能だろうことは分かる。
だが「擬」というテーマには、「オリジナリティ」の問題と重なる部分と、重ならない部分とがある。
とまあゴチャゴチャと書いてしまったが、本書に示された正剛氏による「擬(偽)」と「オリジナリティ」についての思想が失敗しているのは、明確にまとめると2点である。
ひとつは「擬」の負の面を考察していないこと。
もうひとつは、本書を通じて氏は「ホント(真)」と「つもり(擬)」に差はないと主張しているはずなのに、じつはご本人も気がつかないうちにそうではなくなり、「ホント(真)」や「オリジナリティ」や「本家」の価値を否定するというただそれだけの結論に至ってしまっていること。
おそらくこれからのセイゴオ思想には、「オリジナル/ホント/真」の意味と価値の再配置と、そして「編集以外」の可能性をも模索することとが、どうしても必要になってくる。まさか「編集以外」などというものはない、とはなるまい。「以外」があるから分けられるのであり、分けるから分かる、分かるから意外なものに変わっていくのだから。
分けるとは、じつは分析し分類するということである。この科学の匂いのする分割理解が好みであろうとなかろうと、やはり理解するには必要な行為のひとつとなるだろう。
「擬」は、まずは分析・分類されなければならないような、あからさまな多義語だ。それをごちゃまぜにして自由自在に語ることで、隠されてしまう真実が色々あった。
*
本書はしかしまた他方では、(おおっ!)と輝く文面も多かった。
話は逸れるが、同2017年には映画『ブレードランナー 2049』が公開され、その映像美にも筋書にも印象にも思想にも世界中で賞賛の声が絶えなかった。初日に映画館に出向いた私の評価も拍手喝采であった(特にヒロインの美貌には目がハートになってしまった)。しかし、物語に関して欲を言えば、……ラストに何かが物足りなかった。筋書や思想の着地点がありきたりなのだ。古めかしい。押井守の傑作アニメーション映画『イノセンス』の展開の枠組みを出ていない。
いったい何が古いのかと考えてみると、そう――ちょうど、正剛氏の語るような「擬 MODOKI」の思想が欠けていたのである。
どれがホンモノ? どれがフェイク? という謎解きの筋書自体を、もしもラストに突き崩せたならば、話にメタ的な層が成立してもっと観客をドギマギさせたことだろう。(というか途中まで真正面からそのテーマに挑んでいたのに…なぜ貫徹しない?)これぞ新時代の問題作だと評されたに違いない。実に惜しかった。
そして振り返って本書『擬 MODOKI』は、その点において『ブレードランナー 2049』を超えていたといえる。
*
ここは「デカルトの重箱」ブログだから〈デカルト〉のことを書こう。
「千夜千冊」には未だ〈デカルト〉の著作がメインに取り上げられて来ないが、『擬 MODOKI』の中にちょくちょく〈デカルト〉の名が出てきた。索引がないので通読しつつ列挙するとp.19、21、46、117に〈デカルト〉の語があった。順に見ていこう。
ソルボンヌで文学と数学を修めたレイモン・クノーは、あるときデカルトの『方法序説』を今日の話し言葉で書いてみたらどうなるかと思いついた。それでアルフレッド・ジャリやレーモン・ルーセルらとともに潜在的文学工房「ウリポ」(Oulipo)をつくり、自分でも文体がどのように現象を記述するかという実験にとりくんだ。その成果のひとつはめざましい『文体練習』という一冊になっている。デカルトを「くずし」や「やつし」の対象にするとは、感心した。(p.19)
私が驚いたのは、『文体練習』という本に『方法序説』の異訳があったのか! ということだった。私は慌てて正剛氏お薦めのクノー著『文体練習』を手元に用意した。が、……デカルトのことなどひとつも載っていなかった。
確かに、上記の文章では『文体練習』に『方法序説』が載っているかどうか、微妙な書きぶりだった。
……録音機の技術屋が録音機能のないウォークマンをつくったのは、クノーがデカルトからデカルトの文体を取り除いたことに匹敵する。(p.21)
私は別にそこまで大した事とは思わない。
実は私自身も、『方法序説』を今日の日本語スラングで書き直したらどうなるか、と真剣に発想したことがあったからだ。しかし、すぐにこりゃ駄目だな、あまり意味がないなと分かった。どうしても内容自体が17世紀フランス人の発想だからである。文体と内容とは引き剥がせないところがある(日本語訳にした時点ですでにけっこう変容してしまう)。引き剥がして現代版に改編するとどうなるか? デカルトが一番嫌がっているように、細かな部分から綻んでいって、結局彼の思想とは違うものになってしまうはずなのである。
では、どうして無能なる私でさえそんなクノーと同じ発想ができてしまったのか? それは、『方法序説』こそが当時のフランス一般語で市民に向けて書かれた哲学書として画期的だったからだ。相似的に連想すれば、そんな発想に自ずとなる。大した発想ではなかったのである。
十八世紀はデカルトから啓蒙主義をへて、フランス革命とアメリカ独立がもたらされた時代だった。あまり図式的に言うのは気がひけるけれど、これを社会哲学史ではまとめて「理性の時代」などという。(p.46)
いちおう重箱の隅をつついておくと、デカルトは1596~1650年に生きた人だから、18世紀のことは「デカルト主義から啓蒙主義を経て」と述べるのがベターだ。
ただし、18世紀がデカルト思想の衰退期であることをちゃんと抑えておくべきである。正剛氏におかれては、 『疎まれし者デカルト 十八世紀フランスにおけるデカルト神話の生成と展開』(山口信夫、世界思想社、2004)をお読みいただきたい。
だから上記の場合は〈デカルト〉を〈デカルト主義〉に直すのではなくて、〈十八世紀〉を〈十七から十八世紀〉に直すのがよいのだろう。
(アーリア神話の箇所)人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義が交わされていた。十世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと二八種ほどの民族が先行していたことを主張した。
とうてい共通認識されるはずもないだろうに、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョンとなって歴史思想をかいくぐってきた。……
……これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であって、それ以外の選民がもっといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張であった。いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張に心を動かし、パスカルは一笑に付した。(p.117)
「すべての人間が一人の父のもとから派生したわけではない可能性」という考えが、なぜ“トンデモ仮説”で、なぜデカルトやメルセンヌが“おっちょこちょい”と言えるのか? それが後年のナチスによるユダヤ人虐殺につながる思想につながっているから、という理屈ならそれは無理くりの杜撰な結果論である。
まず思想家ならば、別様の可能性をいろいろ発想するべきであろう。アイデアマンのデカルトがあれこれ考えるのは当たり前だ。それでも、基本的にデカルトは神学を自分の思想の外に置いていた。それに対し、一笑に付したパスカルのほうはそもそもが保守的なキリスト教思想家である。
この箇所は、説明不足かつナンセンスな正剛氏の(おっちょこちょいな)言説であった。
もうひとつデカルトのことで加えて書いておきたい。
本書で取り上げてある慈円の「顕と冥」つまり「あらはるるものとかくるるもの」、ボームの「明在系と暗在系」(第四綴、~p.38)に、なぜデカルトの「物と心」をも並べることを正剛氏はなさらないのか?
さらに言えば、デカルトは「生活と理性」の違いのことも説いていて、この二元性だって「顕と冥」に通ずるものがある。
多くの人が気がついていないかもしれないのであえて声高に言っておくけれど、デカルトは理性一辺倒の思想家ではない。そして彼の二元論はいわば「多重二元論」なのである。
*
最後に蛇足の余談を。
正剛氏は1年ほど前に肺癌の摘出手術をされた。以降の氏の文章からは、ヘビースモーカーを高らかに自慢しこれこそがアイデンティティのひとつだと頑なに標榜し嫌煙志向を敵視する、そういった類の発言が消えた。
のみならず、文章全体や表情や容姿には少し昏い、厳かな気品が深々と漂うようになった。老境でも迷いを隠さない実直な文章が、かえって魅力になっている。裏をみせ表をみせて、いよいよ膨大なる知識が血肉化した仙人のようになってきたぞ、と一読者(ファン)の私には感じられて嬉しい。
以前はどうだったかというと、私は20年以上前の高校時代から知らずに正剛氏の著作を読んできたが、今から10年ほど前の氏は、何となく胡散臭く、ナルシシズム全開で、有名人だらけの人脈話にも過去の業績話にも、私はピータンを頬張った時のような顔付きをしばしばしてしまいがちだった。
「千夜千冊」だって、はじめはどうやって読めばよいか思案に暮れた。
1冊の本を解説・紹介する一般的な書評とは、まるで違う。ばんばか人名、書名、哲学、歴史、芸術、科学が出てくる。明らかに引用過多だ。
ちなみに、文章の中に出てくる〈固有名詞の多さ〉、それこそが松岡正剛の書く文章の大きな特徴のひとつだろう。固有名詞を用いた〈引用過多〉の文体に、まず初読者は慣れ親しまなければならない。
しかも、なるべく辞書を引き引きネットで検索しいしい、ひとつずつ固有名詞のイメージを附加させて進むのが理想である。そうでなければエッセイの内容自体がイメージできないのだから。
「誰だそりゃ、知らんよ」ということが延々と続いて浅学なる我々読者は最初はイライラする。でも、頻繁に出てくる人名はそんなに多くはない。正剛氏にだってお気に入りがある。重要な人名は教養として蓄えていくのがよい。我々にとってはそのための読書でもあるはずではないか。
それから慣れてくると、人名の中には、覚えなくてもいいような方の名前や(氏のお友達とか)、ただ雰囲気を多様にみせたいためだけに羅列してある芸能人の名前などがままあることにも気がつくだろう。わざわざ覚えなくてもよい知識がどれなのかは、読み慣れてくれば自ずとわかってくる。人それぞれに。
さて、このように若い時は胡散臭そうなナルシスト風で、痩せ型でメガネで髭でどこか鼠みたいだが和装が似合い、数々の著名人と交流を重ねながら長じて文化のハブ的なキーパーソンとなり、個性が尖った語りべで突出した表現力があるため自己顕示欲が強いのに裏方に徹しがちで、大勢を指揮して事業を進める立場になって時に厳しく時に慈愛に満ちた態度で若者たちを育て、ある時は高尚なエロさを発露しまたある時は煙草中毒であることを自身の個性として傲然と構える、博識で多才で仕事人で遊び人なリベラル派の雑誌編集者――そんな人物像を、私は松岡正剛氏以外に、もう1人イメージする。
スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーだ。
「千夜千冊」には宮崎駿のアニメなどのことは何度か出てくることもあったが、容姿も業績も才能もどこか似ている鈴木敏夫氏の名前は一度も出てきたためしがない。
他方、鈴木敏夫氏も本は出しているし文章も書くし映像も音源も配信しているが(これらのことさえ重なる!)、私の見てきた範囲では、鈴木氏は松岡正剛の名前を挙げたことはない。
しかし、両者の知人・友人・関係者が互いに被っていることは、しょっちゅうなのである。
このお二方は、おそらく互いを意識しながら避けあってるのではないのか?
あまりにも似た部分が多いから、却って反発しあうのではないか?
そんなことを勝手に想像しつつ、私は大衆の一人として、多少マニアックに、松岡正剛と鈴木敏夫のこうした近似性と無関係性を以前から注視していた。
その「鈴木敏夫」の名前が、本書『擬 MODOKI』に唐突に出てきたのである。143ページ、米林宏昌監督の『借りぐらしのアリエッティ』のプロデューサーとしてさらっと載っていた。
私は「わおっ!」と呟いて、すぐにそのことを妻のところへ行き口早に語ってみせた。妻は完全に興味外の話を多忙な中聞かされて、「ふーん」とだけ低い声で応えた。
憶測で書くのだけれど、きっと何か色々なことが正剛氏の中で変わってきているのだ。変化し続ける人間は稀人(まれびと)である。興味が尽きないゆえんだ。
私は正剛氏のイシス編集学校とはまったく無関係だし、おそらく今後も縁はない。ただの一読者として松岡正剛の著作を読み、多大なる知的影響を受け、時々賞賛批判をブログに書き散らしているだけである。
私の性格上どうしてもブログには批判を多く書いてしまいがちなのだが、内心では心の底から正剛氏を尊敬してもいる。これほどまでに広く、深く、表現力豊かに教養をくれる知識人は、地球上どこを探したっていないかもしれない。はばからずに告白すれば要するに、私は松岡正剛氏に私淑している、ということになるだろう。親炙に浴することはなくとも。
結局のところ大変素晴らしい「千夜千冊」。
だが、読む側もけっこう大変だ。
ブログ「千夜千冊」をすべて通読したという人は、生徒やお弟子さんをはじめ世の中に数千人くらいはいてもおかしくない。そう思ってネット上を検索してみたのだが、そのように公言している人の記事はひとつも見つからなかった。
現在までの「千夜千冊」を全部読了した人は実際にはどれくらいいるのだろう? 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を通読した人は一人もいないかもしれないとはしばしば言われることだが……
とにかく、全読破に挑むには、まず読者側に良策が要る。
私は表計算ソフトで番号を打ち出して、ランダムに読んでも虱潰しに読み進められるようにチェックシートを作った。ところが正剛氏の執筆のスピードはとても速い。こちらがたらたらと遅読にかまけている間に2年の歳月が経ち、チェックシートの数字が足りなくなっていた。

古くなった私の読書チェックシート
それで新しいチェック表を作ることにした。
ついでに今回は、私と同じように全読破を志す読者の方々のためにも、「『千夜千冊』読書チェック表」のPDFデータを公開しておこう。各自自作する労を省けるでしょう。ただ1~2000の連番を羅列しただけのものでしかないのだけれども。
→「『千夜千冊』読書チェック表」ダウンロード
http://www.kasainote.net/1000
(※『松岡正剛の千夜千冊』ブログの全読破をめざす皆様、どうぞ自由にご使用ください。)
*************************
【注記】このチェック表は『千夜千冊』(松岡正剛/ISIS編集学校)とは一切無関係です。ただの一読者である私が勝手に自分用に作ったものをフリーで公開しました。PDFをA4用紙に印刷して自由にお使いください。【使用法】チェック表の使用方法は各自で自由に工夫してください。日付を付けるもよし、番号に○だけ付けるもよし、メモを書き込むもよし。ただし、傑作の稿には必ず目印を付けておくべきです。【TIPs】最初や最後から順に進めるのは時々にして、基本的には読者の興味分野からランダムに攻めるのが長続きするコツです(そのためのチェック表なのです)。そしてただ読み進めるのではなく、気になった文章や読みたい本をメモ帳などにコピペしておくのが理想です。【掩巻】正剛氏も江戸時代の読書法として紹介していた「掩巻(えんかん=時折本を閉じて味わうこと)」をお薦めします。電子画面での読書は紙媒体よりも眼精疲労を引き起こしやすいと思いますが、目の健康は読書の資本。掩巻は一挙両得の読書法なのです。
【MEMO】「松岡正剛の千夜千冊」ウェブサイト → http://1000ya.isis.ne.jp/top/
*************************

新しく作り直した「『千夜千冊』読書チェック表」
*
さて、松岡正剛氏個人での最新著書は『擬 MODOKI』(副題:「世」あるいは別様の可能性、春秋社、2017)。帯には、“「世」はすべて「擬」で出来ている”、“「ほんと」と「つもり」は、どっちが歴史なのか? 世界と日本の見方が一変する、驚愕の超読的エッセイ”とある。今日はこの本を紹介したい。

「擬」という見方は、本物があって擬物があるのではなく、「ほんと」と「つもり」がまじった状態でしか世界や世間は捉えられないという見方だ、すべては内属しつつ外包されているからだ、という。
こうして世の中を「擬(もどき)」あるいは「別様の可能性(コンティンジェンシー)」として捉えなおしたい。――それが本書のテーマとのことだ。(p.277)
またもや正剛氏、よくぞこんな表現の難しい主題に次々と取り組むものだ。
これまでも、弱くて淡いものの凄さを取り上げた「フラジャイル」だの、日本の美意識の趣についての「数奇」だのと、曖昧で表現しようすれば指の間から零れ落ちそうな題材を思想エッセイとしてまとめてきた氏であるが、今回もやはり難題であろう「モドキ」という事象について語ったのであった。
果たして、本の出来映えはまずまずの75点だった。
というのも、全体として真正面から「擬(もどき)」を考えていくというよりは、外側から真理をスケッチしようとするタッチで描いている。そのことはいいのである。しかし外側から攻めすぎて、完全にテーマから逸れている話題が少なくなかった。そんなだから、この1冊で「擬(もどき)」を探求しきれておらず時々「擬(もどき)」に触れる、という感じに妥協してしまっている。

目次にメモした私の評価。「目次」の語も掲げないシンプルな目次構成が美しい。
やはり「擬(もどき)」というテーマはそれなりに深い。着眼点、正剛氏の思想の方向性は、やっぱり凄いのである。
コピーと原本とに本家分家の違いなどあるまい、遺伝子を見てみよ、というわけだ。
しかし氏はさほど腰を入れて取り組んでいないから、案外あっさり終わってしまう。
最近の「千夜千冊」のエッセンスを散りばめてダイジェスト版みたいにしてお茶を濁している。
本書について決定的に言えるのは、この本では肯定的な意味での「擬」に拘りすぎたために、否定的な「擬」がこそぎ落されてあるという考察的欠落があることだ。「擬」にまつわる負の面は、編集によってすっかりカットされている。
ウソとホントの違いを分析したりしないし、「本物そっくりのモドキ」には触れられてもいない。
私は正剛氏の生命観や自然観に非常に共感するところが多いのだが、それなのに色々と惜しいのである。本来のモドキという意味が発揮される動植物の「擬態」についての考察がないのはなぜか? 本来「擬」の認識には他者を騙すという意味が濃い。昆虫でも爬虫類でも食虫植物でも、擬いておいてパクッとやるのである。パクッとやるために擬くのだ。あるいはパクッとやられないために、擬いてこっそり危機をやり過ごす。本書の思索はそこが出発点であるべきではないのか?
そういう話がまったく出てこない。
そして人間も同じであろう。
迷彩柄、偽装工作、オレオレ詐欺……騙すのが「擬」の原義のひとつである。
それから、中国製のフェイク製品とか、100円ショップのコピー商品が本家本元を殺してしまうという市場の問題もスケッチされていない。そうした考察は何もない。
つまり、誰もがまず想起する「擬(モドキ)」の不評について、本書には全然書かれていないのだった。ダミーについて論ずることなく「擬」を語り尽くしたとは到底いえまい。
それどころか、「オリジナリティなどというものは存在しない」とまで論じているようだ。
そこではタルドの言を引用し、「すべてのものは発明か模倣かにほかならない」というところから、
……世間ではしばしば模倣の意図を問題にする。オリジナリティや知的所有物を養護する。しかし「模倣が意識的であるのか無意識的であるのか、あるいは意図的だったのかそうではなかったのかということを区別するのは意味がない」。(p.69)
という。
するとなると発明家・発見者・イノベ―ターの仕事はほぼ無価値になるが、正剛氏の論説ではいつもそこは別様な解釈が施され、編集されてしまう。大体、正剛氏の文章はいつも人名引用が膨大になるが、人名や書名など固有名詞はそもそも何らかのオリジナリティを発現しているからこそ固有名詞たりうるし、わざわざ引用するのである。正剛氏だって、「杉浦康平にオリジナリティはない」とか「足穂には独創性など何もない」とは(薄っすら思っていたとしても)まさか語れまい。そんなことは言わなくていい。むしろ正剛氏の中で「オリジナリティ」の定義を適切な位置までズラしてやるべきなのだ。
たしかに正剛氏やタルドのこの論説には一理ある部分もあるだろうと、私だって思う。しかしこれで「擬」のすべてを肯定的に持っていったり、社会は「擬」で出来ているなどと説くのは極論で、あまりにも浅はかな考察であろう。随分以前から「千夜千冊」でも“模倣”や“擬”について考察が重ねられており、例えばニーチェや三島由紀夫と絡めたりして氏の中でだいぶ思想は深まっているはずなのだが、書籍化されたらそれらが十分に活かされてはいない。
「オリジナリティ」の問題には「擬」かホンモノかということ以外にも、価値の創出だの再定義だのという要素もあって、デュシャンやウォーホルや織部や利休、そしてボイス、雪舟、空海などとセイゴオ的に芋づる辿って「世」を丸ごと包み込みつつ包まれる展開にもっていくことはいくらでも可能だろうことは分かる。
だが「擬」というテーマには、「オリジナリティ」の問題と重なる部分と、重ならない部分とがある。
とまあゴチャゴチャと書いてしまったが、本書に示された正剛氏による「擬(偽)」と「オリジナリティ」についての思想が失敗しているのは、明確にまとめると2点である。
ひとつは「擬」の負の面を考察していないこと。
もうひとつは、本書を通じて氏は「ホント(真)」と「つもり(擬)」に差はないと主張しているはずなのに、じつはご本人も気がつかないうちにそうではなくなり、「ホント(真)」や「オリジナリティ」や「本家」の価値を否定するというただそれだけの結論に至ってしまっていること。
おそらくこれからのセイゴオ思想には、「オリジナル/ホント/真」の意味と価値の再配置と、そして「編集以外」の可能性をも模索することとが、どうしても必要になってくる。まさか「編集以外」などというものはない、とはなるまい。「以外」があるから分けられるのであり、分けるから分かる、分かるから意外なものに変わっていくのだから。
分けるとは、じつは分析し分類するということである。この科学の匂いのする分割理解が好みであろうとなかろうと、やはり理解するには必要な行為のひとつとなるだろう。
「擬」は、まずは分析・分類されなければならないような、あからさまな多義語だ。それをごちゃまぜにして自由自在に語ることで、隠されてしまう真実が色々あった。
*
本書はしかしまた他方では、(おおっ!)と輝く文面も多かった。
話は逸れるが、同2017年には映画『ブレードランナー 2049』が公開され、その映像美にも筋書にも印象にも思想にも世界中で賞賛の声が絶えなかった。初日に映画館に出向いた私の評価も拍手喝采であった(特にヒロインの美貌には目がハートになってしまった)。しかし、物語に関して欲を言えば、……ラストに何かが物足りなかった。筋書や思想の着地点がありきたりなのだ。古めかしい。押井守の傑作アニメーション映画『イノセンス』の展開の枠組みを出ていない。
いったい何が古いのかと考えてみると、そう――ちょうど、正剛氏の語るような「擬 MODOKI」の思想が欠けていたのである。
どれがホンモノ? どれがフェイク? という謎解きの筋書自体を、もしもラストに突き崩せたならば、話にメタ的な層が成立してもっと観客をドギマギさせたことだろう。(というか途中まで真正面からそのテーマに挑んでいたのに…なぜ貫徹しない?)これぞ新時代の問題作だと評されたに違いない。実に惜しかった。
そして振り返って本書『擬 MODOKI』は、その点において『ブレードランナー 2049』を超えていたといえる。
*
ここは「デカルトの重箱」ブログだから〈デカルト〉のことを書こう。
「千夜千冊」には未だ〈デカルト〉の著作がメインに取り上げられて来ないが、『擬 MODOKI』の中にちょくちょく〈デカルト〉の名が出てきた。索引がないので通読しつつ列挙するとp.19、21、46、117に〈デカルト〉の語があった。順に見ていこう。
ソルボンヌで文学と数学を修めたレイモン・クノーは、あるときデカルトの『方法序説』を今日の話し言葉で書いてみたらどうなるかと思いついた。それでアルフレッド・ジャリやレーモン・ルーセルらとともに潜在的文学工房「ウリポ」(Oulipo)をつくり、自分でも文体がどのように現象を記述するかという実験にとりくんだ。その成果のひとつはめざましい『文体練習』という一冊になっている。デカルトを「くずし」や「やつし」の対象にするとは、感心した。(p.19)
私が驚いたのは、『文体練習』という本に『方法序説』の異訳があったのか! ということだった。私は慌てて正剛氏お薦めのクノー著『文体練習』を手元に用意した。が、……デカルトのことなどひとつも載っていなかった。
確かに、上記の文章では『文体練習』に『方法序説』が載っているかどうか、微妙な書きぶりだった。
……録音機の技術屋が録音機能のないウォークマンをつくったのは、クノーがデカルトからデカルトの文体を取り除いたことに匹敵する。(p.21)
私は別にそこまで大した事とは思わない。
実は私自身も、『方法序説』を今日の日本語スラングで書き直したらどうなるか、と真剣に発想したことがあったからだ。しかし、すぐにこりゃ駄目だな、あまり意味がないなと分かった。どうしても内容自体が17世紀フランス人の発想だからである。文体と内容とは引き剥がせないところがある(日本語訳にした時点ですでにけっこう変容してしまう)。引き剥がして現代版に改編するとどうなるか? デカルトが一番嫌がっているように、細かな部分から綻んでいって、結局彼の思想とは違うものになってしまうはずなのである。
では、どうして無能なる私でさえそんなクノーと同じ発想ができてしまったのか? それは、『方法序説』こそが当時のフランス一般語で市民に向けて書かれた哲学書として画期的だったからだ。相似的に連想すれば、そんな発想に自ずとなる。大した発想ではなかったのである。
十八世紀はデカルトから啓蒙主義をへて、フランス革命とアメリカ独立がもたらされた時代だった。あまり図式的に言うのは気がひけるけれど、これを社会哲学史ではまとめて「理性の時代」などという。(p.46)
いちおう重箱の隅をつついておくと、デカルトは1596~1650年に生きた人だから、18世紀のことは「デカルト主義から啓蒙主義を経て」と述べるのがベターだ。
ただし、18世紀がデカルト思想の衰退期であることをちゃんと抑えておくべきである。正剛氏におかれては、 『疎まれし者デカルト 十八世紀フランスにおけるデカルト神話の生成と展開』(山口信夫、世界思想社、2004)をお読みいただきたい。
だから上記の場合は〈デカルト〉を〈デカルト主義〉に直すのではなくて、〈十八世紀〉を〈十七から十八世紀〉に直すのがよいのだろう。
(アーリア神話の箇所)人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義が交わされていた。十世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと二八種ほどの民族が先行していたことを主張した。
とうてい共通認識されるはずもないだろうに、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョンとなって歴史思想をかいくぐってきた。……
……これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であって、それ以外の選民がもっといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張であった。いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張に心を動かし、パスカルは一笑に付した。(p.117)
「すべての人間が一人の父のもとから派生したわけではない可能性」という考えが、なぜ“トンデモ仮説”で、なぜデカルトやメルセンヌが“おっちょこちょい”と言えるのか? それが後年のナチスによるユダヤ人虐殺につながる思想につながっているから、という理屈ならそれは無理くりの杜撰な結果論である。
まず思想家ならば、別様の可能性をいろいろ発想するべきであろう。アイデアマンのデカルトがあれこれ考えるのは当たり前だ。それでも、基本的にデカルトは神学を自分の思想の外に置いていた。それに対し、一笑に付したパスカルのほうはそもそもが保守的なキリスト教思想家である。
この箇所は、説明不足かつナンセンスな正剛氏の(おっちょこちょいな)言説であった。
もうひとつデカルトのことで加えて書いておきたい。
本書で取り上げてある慈円の「顕と冥」つまり「あらはるるものとかくるるもの」、ボームの「明在系と暗在系」(第四綴、~p.38)に、なぜデカルトの「物と心」をも並べることを正剛氏はなさらないのか?
さらに言えば、デカルトは「生活と理性」の違いのことも説いていて、この二元性だって「顕と冥」に通ずるものがある。
多くの人が気がついていないかもしれないのであえて声高に言っておくけれど、デカルトは理性一辺倒の思想家ではない。そして彼の二元論はいわば「多重二元論」なのである。
*
最後に蛇足の余談を。
正剛氏は1年ほど前に肺癌の摘出手術をされた。以降の氏の文章からは、ヘビースモーカーを高らかに自慢しこれこそがアイデンティティのひとつだと頑なに標榜し嫌煙志向を敵視する、そういった類の発言が消えた。
のみならず、文章全体や表情や容姿には少し昏い、厳かな気品が深々と漂うようになった。老境でも迷いを隠さない実直な文章が、かえって魅力になっている。裏をみせ表をみせて、いよいよ膨大なる知識が血肉化した仙人のようになってきたぞ、と一読者(ファン)の私には感じられて嬉しい。
以前はどうだったかというと、私は20年以上前の高校時代から知らずに正剛氏の著作を読んできたが、今から10年ほど前の氏は、何となく胡散臭く、ナルシシズム全開で、有名人だらけの人脈話にも過去の業績話にも、私はピータンを頬張った時のような顔付きをしばしばしてしまいがちだった。
「千夜千冊」だって、はじめはどうやって読めばよいか思案に暮れた。
1冊の本を解説・紹介する一般的な書評とは、まるで違う。ばんばか人名、書名、哲学、歴史、芸術、科学が出てくる。明らかに引用過多だ。
ちなみに、文章の中に出てくる〈固有名詞の多さ〉、それこそが松岡正剛の書く文章の大きな特徴のひとつだろう。固有名詞を用いた〈引用過多〉の文体に、まず初読者は慣れ親しまなければならない。
しかも、なるべく辞書を引き引きネットで検索しいしい、ひとつずつ固有名詞のイメージを附加させて進むのが理想である。そうでなければエッセイの内容自体がイメージできないのだから。
「誰だそりゃ、知らんよ」ということが延々と続いて浅学なる我々読者は最初はイライラする。でも、頻繁に出てくる人名はそんなに多くはない。正剛氏にだってお気に入りがある。重要な人名は教養として蓄えていくのがよい。我々にとってはそのための読書でもあるはずではないか。
それから慣れてくると、人名の中には、覚えなくてもいいような方の名前や(氏のお友達とか)、ただ雰囲気を多様にみせたいためだけに羅列してある芸能人の名前などがままあることにも気がつくだろう。わざわざ覚えなくてもよい知識がどれなのかは、読み慣れてくれば自ずとわかってくる。人それぞれに。
さて、このように若い時は胡散臭そうなナルシスト風で、痩せ型でメガネで髭でどこか鼠みたいだが和装が似合い、数々の著名人と交流を重ねながら長じて文化のハブ的なキーパーソンとなり、個性が尖った語りべで突出した表現力があるため自己顕示欲が強いのに裏方に徹しがちで、大勢を指揮して事業を進める立場になって時に厳しく時に慈愛に満ちた態度で若者たちを育て、ある時は高尚なエロさを発露しまたある時は煙草中毒であることを自身の個性として傲然と構える、博識で多才で仕事人で遊び人なリベラル派の雑誌編集者――そんな人物像を、私は松岡正剛氏以外に、もう1人イメージする。
スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーだ。
「千夜千冊」には宮崎駿のアニメなどのことは何度か出てくることもあったが、容姿も業績も才能もどこか似ている鈴木敏夫氏の名前は一度も出てきたためしがない。
他方、鈴木敏夫氏も本は出しているし文章も書くし映像も音源も配信しているが(これらのことさえ重なる!)、私の見てきた範囲では、鈴木氏は松岡正剛の名前を挙げたことはない。
しかし、両者の知人・友人・関係者が互いに被っていることは、しょっちゅうなのである。
このお二方は、おそらく互いを意識しながら避けあってるのではないのか?
あまりにも似た部分が多いから、却って反発しあうのではないか?
そんなことを勝手に想像しつつ、私は大衆の一人として、多少マニアックに、松岡正剛と鈴木敏夫のこうした近似性と無関係性を以前から注視していた。
その「鈴木敏夫」の名前が、本書『擬 MODOKI』に唐突に出てきたのである。143ページ、米林宏昌監督の『借りぐらしのアリエッティ』のプロデューサーとしてさらっと載っていた。
私は「わおっ!」と呟いて、すぐにそのことを妻のところへ行き口早に語ってみせた。妻は完全に興味外の話を多忙な中聞かされて、「ふーん」とだけ低い声で応えた。
憶測で書くのだけれど、きっと何か色々なことが正剛氏の中で変わってきているのだ。変化し続ける人間は稀人(まれびと)である。興味が尽きないゆえんだ。
スポンサーサイト