デカンショ節
- 2015/02/23
- 23:44
昨日、地元の市立図書館にCDと本を返却・借入に行った。その時、推薦本コーナーにあった一冊を気まぐれに手にとって借りてきた。
『本の力 (われら、いま何をなすべきか)』高井昌史、PHP、2014
紀伊國屋書店の社長が書いた、ネット時代における出版業界不振への叱咤激励をまろやかな言葉で著した意見本だった。
読んでみると、半ばに「デカンショ節」という言葉が出てきて(おや、こんなところにも!)と思った。
ひと昔前は学生たちは学校で読書習慣を徹底的に叩きこまれ、教養を身につけたということを力説しているp.63~64から、「デカンショ節」の部分を引用する。
「『デカンショ節』などという歌も流行りました。『デカンショ、デカンショで半年暮らし、あとの半年は寝て暮らせ~』というもので、半年は徹底的にデカルト、カント、ショーペンハウエルを読めば、あとの半年は寝ててもいいと。それほど(読書に対して)高い意識をもっていたわけです」
私も、学生運動にあけくれた団塊世代である父から、「デカンショ」という言葉は使われていたと聞いている。
たしかに「大学生ならば教養として、デカルト・カント・ショーペンハウエルくらいは読んでおかないと」という意味合いの標語だったらしい。
今ではめったに聞かない言葉だけれど、私のようなファミコン世代でも、哲学好きならどこかで見聞きした覚えがあるだろう。
いや、今、口ずさむはずもない。ショーペンハウアーの影は薄れてしまった。ニーチェもフッサールもハイデガーも古典になったのだから。
ところでデカルトマニアとしては、この「デカンショ節」の起源に幾説もあることは、前から押さえてあった。
Wikipediaにも載っている。
「デカンショ節」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E7%AF%80
「デカンショ節」は、江戸時代から兵庫県篠山市を中心に歌われ続けている盆踊り歌のひとつが変容したものらしい、と紹介されてある。つまり、「デカンショ節」は「デカルト・カント・ショウペンハウエル」とまったく関係なく、祭りの歌の掛け声が変化して「デカンショ」になったものだという説が有力であるようだ。
他方、篠山市史には、「デカルト・カント・ショウペンハウエル」説が正しそうだ、と載っているらしい。
どちらが正しいのかは、結局のところ分からない。
さて、(ここからはデカルトと関係ない話だが、)さっきの『本の力 (われら、いま何をなすべきか)』を読んでみると、この10年、15年ほどのあいだに叫ばれてきた出版業界の不振や問題が、巨大本屋の代表取締役 兼 各書店組合代表者として、ホンネをもって噛み砕いて書かれていて「ふむふむ」と思いながら読めた。
このままでは日本の文化が、それを支える本という柱から崩れるぞ、と警告し、著者は早期改善を訴えている。
具体的には、再販制度という図書流通販売のルールを無視して爆走するネット販売のアマゾンや、やはりそのルールをかいくぐるライトな古書チェーン店ブックオフを指摘し、あるいは学生の活字離れ、パソコンヤスマホでのネット社会、図書館のあり方、人口減、再販制度の硬直、取次の不備、他にも累積する図書製造・販売業界の問題を挙げ、奮然とした気持ちを抑え抑えしながら意見してある。
私の読後感想は、こうである。
分かりやすく読みやすく的を射ているが、何年も前から大勢の人が書いている内容ばかりだ。
また、書店や書店組合側自身からの反省点も多く挙げられて一見フェアな見解を示しているかにみえるが、大手を振るって儲けてきた巨大企業にしては軟弱な意見が多くて頼りない。
グローバル化・電子化・流通と販売の急速な形態変化によって、これまで戦後の日本文化を支えてきた図書生産流通のシステムが一挙に崩れかかっているというのは分かる。その通りの危機は迎えているだろう。
ただ、それは食い止めようとしてもダメなのだと思う。
氏は、業界維持・会社維持→図書流通システム維持→図書生産の維持→本の文化を守る→日本の文化そのものを守る、という単純な図式で語っておられる。
そして、立場もあってのことだろうが、断固とした業界維持・会社維持がどうしても優先するのだ。
敵対するアマゾンやブックオフは、確かに業界の中では攻撃的戦略をズル賢く展開しているかもしれないが、目下、顧客大優先なのである。逆に、まず業界維持・会社維持ありきならば、どういう理屈で大衆がついてくるというのか。
いや、目先の利益に釣られていると、あとで大衆自身にしっぺ返しがくるぞ! というのも意味は分かる。
こういう問題の構造は農業分野でもそうだし、インフラ整備の各分野でもそうだし、販売流通の各分野でもそうだし、国防の分野でもそうだし、それこそ現代の日本社会にゴマンと転がっている。
分かるけれど、その「あとでしっぺ返しがくるぞ!」の論理展開では、主体と目的がそれぞれ何度もずれ、しかも推論でしかないのでどうしても弱い。
一方で、本の売れ行きがどんどん下がっている根本原因のひとつに、氏は「人口減」を挙げている。
それは事実だとしても、この小さな日本列島に、あとどれだけの人口増を望めというのだろう? 少なくとも現在、江戸末期の3倍の人口は抱えている。経済を回すことにこそ主眼をおくというのならば、それこそ無限に人は増え続けねばならないから、あとで相当なしっぺ返しがくるに違いない。
氏は、こういうしっぺ返しのことは気にしないようで、「これは仕方がない」とは言わずに問題視するだけだ。
また、DTP(デスクトップ・パブリッシング)について、この本ではまったく取り上げてすらいないが、出版業界の構造の激変が始まっている背景に、DTPの広がりも無視はできまい。
書店や取次のみならず、編集者も出版社も中抜きされる事態が予測されてすでに久しい。京極夏彦が小説のみならず自らパソコン上で編集まで済ませ、佐藤秀峰が自らの作品をネット上で発表していくなどの話題は、話題になった時点で、春一番の風を多くの人が感じとったはずだ。業界構造は季節が変わりゆくように徐々に変遷している。
夏になって「あれは季節の変わり目だった」と言ったところで、猛暑に打ち克つことはできまい。
「本が文化の源」という氏の意見にも、私はいろいろ賛同しかねる。本の歴史は人類文化史のなかでみればわりと最近のことじゃないか。民衆にまで浸透してからをいえば、まだどの国でも千年経っていない。
けれど、あらゆることが起こって、現存のあらゆる社会システムが崩れたとしても、
……私は、やはり本は残ると思う。
私だって絶対にいつか本を作るのだ。
冷水でコウゾを漉いてでも。彫刻刀で版木を彫ってでも。
『本の力 (われら、いま何をなすべきか)』高井昌史、PHP、2014
紀伊國屋書店の社長が書いた、ネット時代における出版業界不振への叱咤激励をまろやかな言葉で著した意見本だった。
読んでみると、半ばに「デカンショ節」という言葉が出てきて(おや、こんなところにも!)と思った。
ひと昔前は学生たちは学校で読書習慣を徹底的に叩きこまれ、教養を身につけたということを力説しているp.63~64から、「デカンショ節」の部分を引用する。
「『デカンショ節』などという歌も流行りました。『デカンショ、デカンショで半年暮らし、あとの半年は寝て暮らせ~』というもので、半年は徹底的にデカルト、カント、ショーペンハウエルを読めば、あとの半年は寝ててもいいと。それほど(読書に対して)高い意識をもっていたわけです」
私も、学生運動にあけくれた団塊世代である父から、「デカンショ」という言葉は使われていたと聞いている。
たしかに「大学生ならば教養として、デカルト・カント・ショーペンハウエルくらいは読んでおかないと」という意味合いの標語だったらしい。
今ではめったに聞かない言葉だけれど、私のようなファミコン世代でも、哲学好きならどこかで見聞きした覚えがあるだろう。
いや、今、口ずさむはずもない。ショーペンハウアーの影は薄れてしまった。ニーチェもフッサールもハイデガーも古典になったのだから。
ところでデカルトマニアとしては、この「デカンショ節」の起源に幾説もあることは、前から押さえてあった。
Wikipediaにも載っている。
「デカンショ節」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E7%AF%80
「デカンショ節」は、江戸時代から兵庫県篠山市を中心に歌われ続けている盆踊り歌のひとつが変容したものらしい、と紹介されてある。つまり、「デカンショ節」は「デカルト・カント・ショウペンハウエル」とまったく関係なく、祭りの歌の掛け声が変化して「デカンショ」になったものだという説が有力であるようだ。
他方、篠山市史には、「デカルト・カント・ショウペンハウエル」説が正しそうだ、と載っているらしい。
どちらが正しいのかは、結局のところ分からない。
さて、(ここからはデカルトと関係ない話だが、)さっきの『本の力 (われら、いま何をなすべきか)』を読んでみると、この10年、15年ほどのあいだに叫ばれてきた出版業界の不振や問題が、巨大本屋の代表取締役 兼 各書店組合代表者として、ホンネをもって噛み砕いて書かれていて「ふむふむ」と思いながら読めた。
このままでは日本の文化が、それを支える本という柱から崩れるぞ、と警告し、著者は早期改善を訴えている。
具体的には、再販制度という図書流通販売のルールを無視して爆走するネット販売のアマゾンや、やはりそのルールをかいくぐるライトな古書チェーン店ブックオフを指摘し、あるいは学生の活字離れ、パソコンヤスマホでのネット社会、図書館のあり方、人口減、再販制度の硬直、取次の不備、他にも累積する図書製造・販売業界の問題を挙げ、奮然とした気持ちを抑え抑えしながら意見してある。
私の読後感想は、こうである。
分かりやすく読みやすく的を射ているが、何年も前から大勢の人が書いている内容ばかりだ。
また、書店や書店組合側自身からの反省点も多く挙げられて一見フェアな見解を示しているかにみえるが、大手を振るって儲けてきた巨大企業にしては軟弱な意見が多くて頼りない。
グローバル化・電子化・流通と販売の急速な形態変化によって、これまで戦後の日本文化を支えてきた図書生産流通のシステムが一挙に崩れかかっているというのは分かる。その通りの危機は迎えているだろう。
ただ、それは食い止めようとしてもダメなのだと思う。
氏は、業界維持・会社維持→図書流通システム維持→図書生産の維持→本の文化を守る→日本の文化そのものを守る、という単純な図式で語っておられる。
そして、立場もあってのことだろうが、断固とした業界維持・会社維持がどうしても優先するのだ。
敵対するアマゾンやブックオフは、確かに業界の中では攻撃的戦略をズル賢く展開しているかもしれないが、目下、顧客大優先なのである。逆に、まず業界維持・会社維持ありきならば、どういう理屈で大衆がついてくるというのか。
いや、目先の利益に釣られていると、あとで大衆自身にしっぺ返しがくるぞ! というのも意味は分かる。
こういう問題の構造は農業分野でもそうだし、インフラ整備の各分野でもそうだし、販売流通の各分野でもそうだし、国防の分野でもそうだし、それこそ現代の日本社会にゴマンと転がっている。
分かるけれど、その「あとでしっぺ返しがくるぞ!」の論理展開では、主体と目的がそれぞれ何度もずれ、しかも推論でしかないのでどうしても弱い。
一方で、本の売れ行きがどんどん下がっている根本原因のひとつに、氏は「人口減」を挙げている。
それは事実だとしても、この小さな日本列島に、あとどれだけの人口増を望めというのだろう? 少なくとも現在、江戸末期の3倍の人口は抱えている。経済を回すことにこそ主眼をおくというのならば、それこそ無限に人は増え続けねばならないから、あとで相当なしっぺ返しがくるに違いない。
氏は、こういうしっぺ返しのことは気にしないようで、「これは仕方がない」とは言わずに問題視するだけだ。
また、DTP(デスクトップ・パブリッシング)について、この本ではまったく取り上げてすらいないが、出版業界の構造の激変が始まっている背景に、DTPの広がりも無視はできまい。
書店や取次のみならず、編集者も出版社も中抜きされる事態が予測されてすでに久しい。京極夏彦が小説のみならず自らパソコン上で編集まで済ませ、佐藤秀峰が自らの作品をネット上で発表していくなどの話題は、話題になった時点で、春一番の風を多くの人が感じとったはずだ。業界構造は季節が変わりゆくように徐々に変遷している。
夏になって「あれは季節の変わり目だった」と言ったところで、猛暑に打ち克つことはできまい。
「本が文化の源」という氏の意見にも、私はいろいろ賛同しかねる。本の歴史は人類文化史のなかでみればわりと最近のことじゃないか。民衆にまで浸透してからをいえば、まだどの国でも千年経っていない。
けれど、あらゆることが起こって、現存のあらゆる社会システムが崩れたとしても、
……私は、やはり本は残ると思う。
私だって絶対にいつか本を作るのだ。
冷水でコウゾを漉いてでも。彫刻刀で版木を彫ってでも。
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